国語の授業から〇〇が消える可能性……

国語から”文学”が消える…?

文芸評論家で明治大学准教授である伊藤氏貴氏は文藝春秋11月号で「戦後最大の「国語」改革が今行われつつあるのをご存知だろうか。」と書き出し警鐘を鳴らす。なんと高校の国語から”文学”が消えつつあるそうだ。

一つは大学入試改革。マーク式一辺倒のセンター試験に代わる後継テストでは新たに記述式の問題が加わる。これだけ聞けばなんとも思わないか、むしろ良いことに感じるだろう。しかし、問題はその内容が駐車場の契約書や交通事故発生件数のグラフに関する事だという。これでは、むしろ総務や会計のような職業訓練である。

二つに高校の指導要領が改訂される。高校一年次は従来のような「国語総合」は半分の時間まで減らされ、前述の契約書やグラフのような「実用文」課程が残り半分を占める形となる。高校二年から三年は実質的に「文学国語」か「論理国語」のどちらかしか選択できないようになる。「論理国語」には当然文学はおろか文学評論すら入れてはならないとのお達しがあるらしく、先の大学入試のことを考えるとほとんどの高校が「論理国語」を選択するよう誘導を働いていると思われる。

記事中で伊藤氏は「中島敦の『山月記』や漱石の『こころ』のような、日本人なら誰でも読んだことのある文学作品が、契約書やグラフの読み取りに取って代わられる」と綴っている。

実用性だけで教養も知性も育たない

中には「文学など要らない」と考える意見もあるかも知れない。今の日本に必要なのは世界に通用するグローバリズムやコミュニケーションで文学ではない、と。しかし一度立ち止まって考えてみてほしい。「実用文」課程は先ほど言ったように、差し詰め、総務や会計止まりの代物だ。想像できるだろうか?今の現代に、グローバル社会に通用するような「事務処理専門の人間」が存在するなんてことを。小手先の「実用」だけで、世界に通用する人材が育つほど、グローバル社会は甘くはない。文学はいわば言語を用いた中で、最高の応用方法の実例であると言える。人の感性に磨きを掛け、豊かな表現や教養、見識をもたらしてくれるのだ。

今回の件、周知のきっかけとなったツイートを行ったミスターK 氏は「少なくない人がこの新方針を支持していて驚く」と述べつつ以下のツイートを添えている。

この人の言葉を思い出す。

「アダム・スミスは言った お金を稼ぐ目的は教養を学ぶ為だと 人文学 つまり哲学 宗教 歴史 文学を学ばない限り 安定した持続可能なシステムにたどり着くことはできない 問題を解決するのに必要な見識 社会のビジョンは教養ある創造力豊かな人間から生まれる」…そういうものを捨てようとしてる日本。

現代でも通じるどころか、もはや現代社会の闇を予見していたかのような『山月記』や『こころ』が現代の国語の授業から消え去ってしまうのは悲しい限りである。

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